忍者ブログ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

新しい広告

取引マーケティングがすべて関係性マーケティングという形になるのかと言えば、必ずしも明確に主張しているわけではないが、例えばD・B・ジョーンズは「コミュニケーション・リレーションシップ・モデル」という名称で、従来展開されてきたトランザクション・マーケティングと新たに提唱されたリレーションシップ・マーケティングを統合し展開していくというニュアンスの指摘を行っている。
 
マーケティング・コミュニケーションそれ自体としての広告の機能も認め、しかし必ずしも利益あるいは売上高の確保という形だけではない展開というところで、コミュニケーション関係モデルに基づく<a href="http://www.comix.co.jp/">新しい広告</a>ということなのである。
 
PR

一九二〇年(大正九年)に掲載された新聞広告も

一九二〇年(大正九年)に掲載された新聞広告も、片岡らしい作品だった。

新聞の記事をバックにあしらい、その上に手描きで「赤玉ポートワイン」という文字と赤い丸をのせたのである。

意表をついたインパクトのある広告だった。

片岡は、チーフデザイナーの井上木宮とともに寿屋の広告を担う。

井上に好きなように多くの絵を描かせ、気にいった絵にコピーを入れてレイアウトした。

常識にとらわれない、独創的で自由な発想が片岡の持ち味だった。

森永製菓に片岡敏郎というコピーライターがいた

森永製菓に片岡敏郎というコピーライターがいた。

片岡は一八八二年(明治一五年)、静岡生まれで、泉鏡花の門下生として作家を目指した時期もあった。

電通に勤めた後、森永でその才能を発揮。

特に有名だったのは、大相撲の横綱、太刀山の手形に「天下無双森永ミルクキャラメル」という白ヌキ文字でつくった新聞広告だ。

片岡は広告の天才とまでいわれていた。

その片岡を信治郎は月給三〇〇円という破格の給料で、寿屋の宣伝部長として招き入れた。

当時大卒の初任給は三〇円。

二〇〇八年の大卒初任給が約二〇万円だから、現代でいうと月給二〇〇万円ということになる。

よほど片岡の才能を買っていたのだろう。

信治郎は、それだけ広告に力を入れていたのだ。

いかに売るか

いかに売るか。

そう考えるうちに、信治郎の広告手法は磨かれていったのである。

赤玉ポートワインは、看板商品として長い間寿屋を支えた。

そして、今も赤玉スイートワインの名で売られているロングセラー商品である。

歯信治郎は宣伝の方法もうまい

歯信治郎は宣伝の方法もうまい。

当時ぶどう酒は薬用酒として売っていた。

全国の医学博士や薬学博士などから有効証明書をもらい、新聞広告を出したのである。

コピーはこうだ。

「滋養になる 一番よき 天然甘味 薬用葡萄酒 赤玉ポートワイン」

時に赤玉ポートワインと書かれた行灯を背負って、赤玉ポートワインのハッピを着た青年が街を練り歩く。

年末には、赤玉なら組赤い目の白鳩がついた稲穂かんざしをつくり、祈祷してもらう。

これを芸者に配り、正月の座敷に出てもらえば話題となる。

カレンダー

08 2025/09 10
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

カテゴリー

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
No Name Ninja
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R